喫茶店『Mute』へ
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《続く》
「ふぅーーーっ」
大きく深呼吸して、あたしはグラウンドを見回した。それから、ぺこりと頭を下げる。
「今日から、また、よろしくねっ」
「あれっ? 虹野先輩、何してるんですか?」
後ろからみのりちゃんの声が聞こえた。あたしが振り返ると、みのりちゃんと瑠美ちゃんが並んできょとんとあたしを見ていたの。
あたしはくすっと笑った。
「うん。グラウンドにね。今日から3学期でしょ? だから、これからもよろしくってご挨拶よ」
そ。今日からいよいよ3学期なのよね。
「あ、なるほどぉ。それじゃ私も! よろしくねーーっ」
「ちょ、ちょっと秋穂さん。みんな見てますよ」
慌ててみのりちゃんのジャージを引っ張る瑠美ちゃん。
あたしは笑って声をかけたの。
「さ、ボール出さなくちゃね! みのりちゃん、手伝ってくれる?」
「はいっ! 任せてください虹野先輩っ!」
「それじゃ、瑠美ちゃんは……」
「ゴールネットを出すんですね。行って来ます」
こくりと頷いて、瑠美ちゃんはたたっと走っていった。瑠美ちゃんもみのりちゃんも、飲み込み早いから助かるなぁ。あはっ。
「よし、今日はこれまで!」
「ありがとうございましたぁ!」
3学期最初の練習もあっという間に終わり。みんながどやどやと部室に戻ってくる。
「お疲れさま。はい、蒸しタオルの用意出来てるから」
「おっ、3学期早々やっぱり虹野さんは優しいなぁ」
「ホントホント」
「もう。誉めても何にも出ないわよ。それに、あたしだけじゃなくて、みのりちゃんや瑠美ちゃんもちゃんとお手伝いしてくれてるんだから」
「そうですよぉ。みんな虹野先輩ばっかり誉めるんだから」
ぷっと膨れるみのりちゃん。みんなが笑う。
うんうん、いい雰囲気だよね。
……さって、と。
「それじゃ、みのりちゃん、瑠美ちゃん。後よろしくね」
「えっ? 何処に行くんですか、虹野先輩?」
「うん、ちょっとね」
あたしがそう言って微笑むと、瑠美ちゃんが横から助け船を出してくれたの。
「みのりちゃん、沢渡君が呼んでるよ」
「あたし? んもう、なによ、沢渡君ったら」
ぶつぶつ言いながらみのりちゃんが1年のみんなのところに行くのを見てから、瑠美ちゃんはにこっと笑って言ったの。
「虹野先輩、今のうちですよ」
「うん。ありがと」
あたしは、部室から外に出たの。
ううっ。
外に出ると、冷たい風が吹いてて、あたしは思わず身震いした。
グラウンドの方を見ると……。やっぱり、いた。
主人くん達が、まだ練習してる。
主人くんを中心にした、2年生の、言ってみれば今のきらめき高校サッカー部の中核と言ってもいいみんな。最近は、部活が終わった後も、ああやって練習してるのよね。
みんな、夢中になってやるもんだから、すぐにオーバーワーク、つまり練習のしすぎって状態になっちゃうの。そこのところを、気を付けてコントロールするのもマネージャーの役目なのよね……って、晴海先生の受け売りだけど。
あたしはグラウンドに走っていくと、ホイッスルを吹いた。
ピリリーーーーッ
「あ、虹野さん」
「何かあったの?」
「何かあったの、じゃないわよ。ほら、そろそろ暗くなるんだし、練習はそれくらいにしないと。根性も大事だけど、根を詰めればいいってものでもないわよ」
あたしが言うと、主人くんが頷いてくれたの。
「そうだな。虹野さんの言うとおりだ」
「んじゃ、今日はこれくらいにするか?」
前田くんが、ぽんと足下のボールを蹴り上げて、両手でキャッチ。
「よし、それじゃ今日は終わりだ」
「おうっ」
みんな、そのまま部室に向かって駆け出していく。
……みんな、調子がいいみたい。よかった。
あたしは、思わず微笑みながら、転がっていたボールを拾い上げた。
校門の前で待っていると、主人くんが手にした鞄を担ぐようにして昇降口から出てくるのが見えたの。
「あ、主人くん!」
駆け寄っていくと、主人くんはびっくりしたようにあたしを見たの。
「あれ? 虹野さん、まだ残ってたの?」
「う、うん。ちょっと雑用が残ってたから」
ホントは、主人くんが出てくるまで時間を潰すために雑用してたんだけど。
「主人くんも今帰り?」
「うん、そうだけど……」
「それじゃ、一緒に帰りましょう」
「そうだね」
主人くんは笑って頷いたの。
並んで歩く帰り道。
「あ、そういえば、もうすぐ虹野さんの誕生日だね」
不意に主人くん。
「え? あ、覚えててくれたんだ」
なんか、それだけでも嬉しいな。
「今年は何をプレゼントして欲しい?」
「えっ? い、いいよ、そんなの悪いし……」
「いいからいいから、言ってみてよ」
「そ、そう? えっと……ねぇ」
あたしは、頬に指を当てて考えてみた。
「そういえば、こないだの料理番組でね、セラミックの包丁っていうの使ってる人がいたの」
「セラミック?」
「うん。すっごく良く切れる包丁なの……」
そう言ってから、あたしははっと気付いた。慌てて手を振る。
「あっ、でもきっとすごく高いから、別にいいよ」
「そっかぁ、セラミックの包丁かぁ」
「いいんだってば! あ、えっと、あたし拒人の星全集でいいから」
「へっ?」
主人くんがまじまじとあたしを見たところで、あたしは変なこと言っちゃったことに気付いたけど後の祭り。
「あは、あははっ。じょ、冗談よ、冗談だってば。あ、それじゃ、あたしこっちだから」
あたしは手を振って、自分のマンションの方に歩き出した。
「それじゃ、おやすみなさい」
「あ、うん。おやすみ。また明日ね」
「うんっ、また明日〜」
手を振って、あたしは主人くんと別れたの。
マンションのエレベーターから降りたところで、不意に声をかけられた。
「お姉さまっ!! お帰りなさい!」
「えっ? あ、葉澄ちゃん。どうしたの?」
葉澄ちゃんはにこにこしながら歩いてきた。
「えへへっ。来ちゃいましたぁ」
「来ちゃったって……。えっと、とりあえずこんな所じゃなんだから、うちに上がって」
あたしは、鞄から鍵を出して、ドアを開けたの。
「はぁい。ただいまぁ〜」
「ただいまって、葉澄ちゃんったら」
あたしは苦笑して、葉澄ちゃんの後から靴を脱いだの。
葉澄ちゃんはというと、さっさと上がって電気をつけてる。
「葉澄ちゃん、夕ご飯は?」
「まだです。あ、でも多分ちーちゃんが作ってくれてるから」
「ちーちゃん? あ、千晴ちゃんのこと?」
あたしは鞄を机の上に置きながら聞き返す。
「わぁい、お姉さまのベッドぉ」
ボスッ
「あっ。こら、葉澄ちゃん!」
「うにゃぁん」
「んもう……」
トルルルル、トルルルル
ちょうどその時、電話が鳴りだしたの。
「あ、はいはい」
あたしは、とりあえず葉澄ちゃんは放っておくことにして、手を伸ばして電話を取った。
「はい、虹野です」
『もしもし、館林ですが……』
受話器の向こうから、聞き覚えのある声がしたの。
「あ、見晴ちゃん?」
『うん。沙希よね?』
「うん、そう。葉澄ちゃんならここに来てるよ」
あたしが言うと、向こうで見晴ちゃんが誰かに言っているのが聞こえた。
『ほら、やっぱり虹野さんの家に行ってたわよ』
『やっぱり? どうする、お姉ちゃん』
『どうしよう?』
「もしもし? ごめんね、迷惑かけちゃって。すぐに帰らせるから」
『え? あ、うん。えっ? あ、ちょっと晴海姉ぇ!』
『もしも〜し、晴海でぇす』
いきなり、電話の向こうから晴海先生の声がしたの。
「あ、はい。虹野です」
『今日から3学期ってことだし、せっかくだからあたしはこの赤の扉を選ぶわ』
「……は?」
『んもう、判ってよん』
「……あ、はい」
『というわけで、うちは今日はちょっと外食しようと思うんだけど、よかったら虹野さんも来ない?』
「えっ? で、でも……」
『どうせそこまで葉澄ちゃん迎えにいくから、ついでよ、ついで。んじゃーねぇー』
プチッ
「あっ、ちょっと待って……」
切れちゃった。
あたしは、ふぅとため息を付いて、受話器を置くと、振り返ったの。
「葉澄ちゃん。晴海先生が、今日は外食にするから、その途中でここに寄ってくれるって」
「あ、そうなんですか? お姉さまもいらっしゃるんですよね?」
「あたしは……」
遠慮するって言おうと思ってたんだけど、葉澄ちゃん、両手を合わせてうるうるしてる。……ううっ。
「あたしも……お呼ばれさせてもらおうかな」
「わぁい! お姉さまとお食事、お姉さまとお食事ぃ!」
「……」
ま、いいかな。
あたしは、とりあえず着替えることにしたの。
「あっ、お姉さま、お手伝いしますぅ」
「い、いいわよぉ」
プップーーッ
「あ、来たのかな?」
クラクションの音がしたから、窓からマンション前の駐車場を見下ろしてみると、思った通り館林先生の緑の車――確かクーパーとかいってた――が停まってたの。
でも、確かあの車って4人乗りだよね。晴海先生とこって、見晴ちゃんに美鈴ちゃんに千晴ちゃんの3人だから、それだけで定員じゃ……。
考え込んでると、チャイムが鳴ったの。
「はいはぁい」
葉澄ちゃんがドアを開けると、晴海先生がひょこっと顔を出したの。
「はろぉ」
「あっ、晴海お姉さま」
あたふたしてる葉澄ちゃんの頭をこつんと叩く晴海先生。
「こら、葉澄ちゃんったら。出かけるときはちゃんと断って行きなさいよ」
「ごめんなさぁい。あ、沙希お姉さま。お迎えが来ましたよぉ」
「はぁい、沙希ちゃん」
手を振る晴海先生。
「あっ、すみません。私までお呼ばれして……」
「いいのいいの。こういうのは人数が多い方が楽しいんだから」
「でも、晴海先生の車って4人乗りですよね。私たちは乗れないんじゃ……」
「大丈夫、大丈夫。いざとなったら見晴は天井に乗せるから」
「えっ? でも、それはちょっとかわいそうじゃないんですか?」
あたしは、あの車の天井に掴まって「あたしって不幸〜〜っ」と叫んでる見晴ちゃんを想像して、思わず言ったの。
「ま、冗談は置いておいて。ちゃんと足は確保してるわよ。それじゃ、行きましょ」
そう言って、晴海先生は歩き出したの。
駐車場に着いたら、見晴ちゃんが駆け寄ってきた。あ、今日はいつもの輪っかの髪型じゃないんだ。
ストレートロングに流した髪に、ちょっとシャギーかかってる。なんか大人っぽいな。
「あ、沙希ちゃん。どう? この髪型」
「うん、すごく似合ってるよ」
「でしょう? 私が誉めても、見晴ちゃん、信じてくれないんだから」
横から声がして、あたしはびっくりしてそっちを見たの。
「あれ? 舞さん? それにマスターまで……」
「やぁ、沙希ちゃん」
そこにいたのは、『Mute』のマスターと舞さんだったの。
「あれ? でも、どうしてここにいるんですか?」
聞き返してから、あたしはマスターの後ろに赤い4WDが停まっているのに気が付いて、訊ねたの。
「もしかして、あの車ってマスターのですか?」
「ああ、そういうこと」
「晴海ったら、いきなり呼び出すんですもの」
舞さんがくすくす笑いながら言ったの。どうやら、マスター達を運転手として呼び出したみたい。
「さて、メンツもそろったことだし、それじゃ出発しましょうかぁ」
晴海先生が言って、あたし達は車に乗り込んだの。